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デンジャラス()は、アメリカ合衆国のミュージシャン、マイケル・ジャクソンのアルバム。 == エピソード == 前作『Bad』以来4年ぶりとなるスタジオ・アルバム。前作までのクインシー・ジョーンズとのコンビを解消し、テディー・ライリーを新たなサウンド・プロデューサーに迎えた。それまでのポップ・ロック・ソウルをミックスさせた路線から、ライリーの提唱するスタイル「ニュージャックスウィング」にジャンルを変更している。オリジナル版の歌詞カードの最初に「」と書かれているように弾けるような爽快な曲が多い一方で、CDに収められる制限時間いっぱいを使っているアルバムであり、多様な楽曲が収められている。 このアルバムで共同プロデューサーとなったテディはクリフォードから、『Dangerous』は時代を先取りしていた、と後に評されている。 1991年10月に発売されたこのアルバムからの先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国以上で1位を獲得。 全米チャートでも7週連続1位を獲得した。 ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。 日本人ダンサーユーコ・スミダ・ジャクソンも参加した。 ところが、このショートフィルムは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的及び性的な要素が強すぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョンと呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体(クー・クラックス・クラン)の名前やハーケンクロイツの描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされた。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品では見ることが出来る。ただ、現在のものは初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正され、それらの文字は消されている。 1992年1月には「リメンバー・ザ・タイム」を発売。 翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド、マジック・ジョンソンと共演した。なかでもイマンとのキスシーンは話題となった。監督は、ジョン・シングルトンが務めた。 テディはのちのインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。 マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。 この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。 エディとはその後「Whatzupwitu」でも共演した。 4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「イン・ザ・クローゼット」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。 7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で共演する「ジャム」が発表された。 これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。 1992年からペプシがスポンサーになり、2度目のワールドツアー「Dangerous World Tour」をスタート。ユーコ・スミダ・ジャクソンも参加した。収益金はマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「ゴーン・トゥー・スーン」「ヒール・ザ・ワールド」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デンジャラス (アルバム)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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